2020-05-20 第201回国会 衆議院 外務委員会 第8号
そのヤルタ会談の、正式、密約合意する前にテヘラン会議があり、モスクワ会議等ありましたけれども、ヤルタで決めた、その決めた内容、決めたことをソ連は実行に移したということですね。 これまでの国会答弁で、ヤルタ会談はまさに密約であり、そして、日本が署名もしていない、締約当事国でもないので、ヤルタ会談に縛られる必要は一切ない、この種の答弁がずっとなされています。私はそれでいいと思っています、一方。
そのヤルタ会談の、正式、密約合意する前にテヘラン会議があり、モスクワ会議等ありましたけれども、ヤルタで決めた、その決めた内容、決めたことをソ連は実行に移したということですね。 これまでの国会答弁で、ヤルタ会談はまさに密約であり、そして、日本が署名もしていない、締約当事国でもないので、ヤルタ会談に縛られる必要は一切ない、この種の答弁がずっとなされています。私はそれでいいと思っています、一方。
さらに、昨日の政府対策本部における報告、公表を踏まえ、今回新たに、韓国慶尚北道の一部並びにイラン・コム州、テヘラン州及びギーラーン州に滞在歴のある外国人についても、特段の事情がない限り、あす午前零時から上陸拒否することとしております。
これに対抗している形で、イランがホーシー派と言われる武装民兵を支援しているとされるイエメン情勢にどう関わっているのかということになりますと、やはりテヘランを頂点としてこのような格好になります。
というのは、多少なりともイランに接したことがある方であれば、多分、岡局長も聞いたことがあると思いますけれども、イラン革命の直後、一九七九年、ホメイニ師自身がそれまでシャーの政権の下で行われていたテヘランでの核の施設を自ら暴露して、そして大量破壊兵器、特に核兵器については非戦闘員を巻き込むのでイスラム法上禁止されているというふうに明確に述べていて、その後、イランにおいては核兵器の製造は国是として反対されているというふうに
実は、私は、一九七八年、七九年、テヘランに住んでおりまして、四十一年前に福田赳夫さんがイランを訪問されたのが多分最後だと思いますが、四十一年ぶりということになりますので、充実した成果が上げられるよう期待をしながら、質問を終わりにしたいと思います。 ありがとうございました。
なぜかというと、トルコの船を、遭難者を救った、だから、テヘランで大変なときにあって、日本の飛行機が行かないというときに、トルコ航空が、撃ち落とされるかもしれないのに飛行機を飛ばして日本人を救っているんです。こういう関係があるんです。 地方とそうやった方がいいんです。そういうようなことも考えてください。
五月二十二日のイギリス・マンチェスターでの自爆テロ、五月三十一日のアフガニスタン・カブールでの爆弾テロ、そして六月三日のロンドン、昨日、六月七日はイランのテヘランでもテロがありました。テロ事件が多発し、世界各国で早急な対策強化が叫ばれているわけです。犠牲になった方々には心からお悔やみ申し上げますとともに、けがに遭われた方、その関係者の皆様方に心からお見舞い申し上げたいと思います。
テヘランにもいました。そこで、来年は日本が世界一になるだろうということをイラクのサダム政権の外務委員長が言いましたから、あるいはほかの国でも不穏な動きがありましたから、逐一それをレポートにして、そして、テロの危険性があるということを日米の両政府に国会として、国会の予算委員会、委員長は野呂田委員長でしたけれども、報告を上げたはずです。 外務省にそれは残っていますか。事務方で結構です。
日本国憲法前文は、米国の憲法や大西洋憲章、テヘラン宣言など、幾つもの既存の文章から写し取った切り張り、パッチワークです。日本国憲法がコピペとやゆされるゆえんでもあります。日本国憲法は、どこの国の憲法でもない憲法であると言えましょう。
私が、イラクの人質解放ということで、一九九〇年ですか、解放になってその翌年、九一年二月でしたが、とにかく戦争をやるべきじゃないという提言をしようということで新聞記者何人かと行くことになりましたが、通信網が全く切れてしまって、イラン、イラクとも連絡が付かなくなって、ローマ経由でテヘランを通って、テヘランから車で国境を越えてということになりまして、そのとき、ローマに立ち寄ったときにちょうどバチカンに案内
その結果、平成二十七年一月に、東京において私が、及びテヘランにおいて先方法務大臣が、この条約の署名を行った次第であります。 この条約は、我が国とイランとの間で、相手国の裁判所が刑を言い渡した自国民受刑者等について、一定の条件を満たす場合に、その本国に移送する手続等を定めております。
定期的に行われておりますテヘランにおける日本文化週間などを活用して、引き続き、折り紙や書道、武道など様々な日本の伝統文化を披露してまいりますとともに、日本映画の上映会などの様々な日本文化紹介事業を積極的に実施するなどして、御指摘の日本文化に対する正しい理解促進についても取り組んでいく考えでございます。
まず、日・イラン受刑者移送条約は、平成二十七年一月九日、東京において日本が、また、同月十日、テヘランにおいてイランが、それぞれ署名したもので、イランで刑に服している邦人等及び我が国で刑に服しているイラン人を本国に移送するための条件、手続等について定めるものであり、第百八十九回国会に提出され、今国会に継続審査となったものであります。
その結果、平成二十七年一月に、東京において私が、及びテヘランにおいて先方法務大臣が、この条約の署名を行った次第であります。 この条約は、我が国とイランとの間で、相手国の裁判所が刑を言い渡した自国民受刑者等について、一定の条件を満たす場合に、その本国に移送する手続等を定めております。
あの映画の中でも触れられておりましたが、今から三十年前、テヘランで厳しい状況が発生した中において、日本の自衛隊機すら残念ながら法制上の問題があって、邦人を、同胞を救出に行けなかった。もちろん民間機もそうでありますが。その中で、トルコの航空会社が自国民を乗せずに、自国民は陸路で帰る、そしてそのかわりに日本人を乗せて日本に運んだ。
その一八九〇年から九十五年たった一九八五年に、今度はイラン・イラク戦争が長期化する中で、イラクのサダム・フセインは、今後四十八時間後以降はイランの上空を飛ぶ飛行機については無差別に攻撃するということを宣言したわけでございまして、そのときに各国は競って救援機を出して自国民をテヘランから国外に脱出させたわけでございますけれども、日本の場合はその飛行機がなかったんです。
六月八日と六月十五日、それぞれイランの在京の大使と、それからテヘランから出張されましたアジア局長と協議をしている、これは事実でございます。 その際、累次お答え申し上げていますとおり、ホルムズ海峡に関してお話がございました。私の方から、日本は特定の国を想定して今議論して、国会で議論されているのではございませんということでお答えをした、それが全てでございます。
これは、大戦中のテヘラン宣言でありましたか、その引用であるという説もありますし、英語で書かれた憲法草案を日本語に直した翻訳調の文章であるということも思うわけでありますけれども、これに続く、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」
一九八五年三月、イラン・イラク戦争でイランの首都のテヘランが危機になり、日本人二百十五人が孤立しましたが、日本の民間航空機は、危険だからとテヘランまで飛んでくれませんでした。それを救ってくれたのはトルコでした。トルコ政府は、テヘランに派遣した二機の救出機のうちの一機を日本人救出に当て、そのために乗れなくなってしまった何百人かのトルコ人は陸路で脱出させたのです。
なぜ私がこういうことを申し上げるかというと、私は、テヘランのイラン特派員で一年半おりまして、イラン・イラク戦争を取材しております。それから、二〇〇四年にはイラク戦争の戦場に行って取材をしておりまして、イスラムということについてそれなりに私は理解をしております。特に、イスラム教の中でジハード、聖戦というもの。 ジハードに参加して命を失って、自爆テロなどを行えば天国に行ける。
アメリカ憲法や独立宣言、大西洋憲章やテヘラン宣言などから引用したと思われ、およそ日本国の憲法の前文としては立派でない恥ずかしい内容となっております。 さらに、日本国の平和を将来にわたって守っていくためにも、憲法改正、自主憲法の制定は急務であると考えます。 私は、戦争は起こしてはならないものであると考えます。これは、何も罪のない人々の命が失われるということはあってはならないと思うからです。
なぜ私がこういうことを言うかというと、一つ申し上げたいと思いますが、これはもう言うまでもなく、一九八五年三月十七日、テヘランの空港に取り残された邦人を救出するために、トルコ航空の飛行機が邦人救出をした。